G1決勝 棚橋弘至vs飯伏幸太、それは神話などではなく。

sayokom2018-08-24


今年のG1の決勝が棚橋弘至vs飯伏幸太、という顔合わせになった時、これはギリシャ神話だな、イカロスだな、と漠然と思っていた。ロウで固めた翼で太陽まで飛んでいく、あの有名な話だ。
もちろん太陽が棚橋弘至で、イカロスが飯伏幸太。太陽に近づくことで翼は落ちてしまうのか、それとも太陽を超えて、文字通り神を超えていくんだろうか、そんな風にロマンチックに考えていたのだけど、現実はそんな生やさしいものではなかった。
棚橋弘至は、魔王のように強かった。

あの日棚橋弘至は黒いコスチュームを選んでいた。恐らく自分のイメージに無頓着なはずがなく、あれははっきりと意志を持ってあの黒を選んだんじゃないかと思っている。ちなみに先立つAブロック最終公式戦のvsオカダ戦でも、棚橋は黒のコスチュームを着ている。

今回、大きな注目を集めていたのが飯伏幸太ケニー・オメガの物語だった。ちょうど10年前の夏、新木場のビアガーデンプロレスで運命的に出会い、6年前、ところも同じ武道館で伝説に残る試合をやってのけた2人が、G1クライマックスで三度向かい合う。前哨戦でも一度も触れなかったし、ケニーの入場を正視することも出来なかった飯伏だけれど、リングの中で向かい合ったその表情は感極まっていた。10年前、飯伏幸太と戦いたくて日本にやってきたのがケニーだったけれど、10年後、G1クライマックスのこの舞台まで飯伏幸太を連れてきてくれたのは、たぶんケニーだった。一度はプロレスを諦めかけて、私たちの前から消えてしまった飯伏だったけれど、ケニーが新日本で死にものぐるいで身体を張り、みんなに認められる試合をひとつずつ積み重ねて、そしてあれほどまでに欲していた「ナンバーワン」の座に上りつめる過程が、飯伏を発奮させなかったはずがない。

飯伏が入場し、約束通りそっとケニーがセコンドに付く。そして入場してくる黒いコスチュームの棚橋。そのコーナーに控えていたのは、柴田勝頼だった。武道館がどよめき、そして棚橋コール。その瞬間、これはもう勝てない、と心のどこかで感じていた。ケニーと飯伏の物語に、柴田勝頼棚橋弘至の物語がぶつかる。ケニーと飯伏よりもっと長く、そして愛憎を乗り越えた2人の物語だ。その柴田は棚橋に「新日本プロレスを見せろ」と声をかけたという。果たしてこの試合は、何vs何の戦いだったんだろうか。

試合が始まり、飯伏が何かを振り払うように、自分を落ち着かせるような仕草をする。そんな飯伏を、棚橋は少しも逃がさないで追いつめる。執拗なドラゴンスクリュー。膝へのピンポイント攻撃。食らいつく飯伏。そこに張り手。

そしてまたあの瞬間がやってきた。ビンタを喰らった飯伏が、ゆっくりと振り返る。瞬間、と書いたけれどそれは永遠のように感じられるほどで、頬を打たれた飯伏が少しずつ、少しずつ向き直るその背中に狂気が宿るのが武道館のど真ん中から2階席のてっぺんまで、そして電波とインターネットを通じて全世界に伝わっていく。その背中だけで、これは良くないことが起きる、と誰もが認知することが出来る表現者としての飯伏幸太の凄さ。ヤバいぞ、これはヤバいヤツが来る時のだ、というざわめきが池の波紋のように隅々まで広がっていく。そして、打撃のラッシュ。いつかどこかで見たように、腕が伸びるような掌打の連打、そして棚橋弘至をまるで空き缶のようにぼこぼこと蹴り続ける。

でも、この日本当に凄かったのは、そこからだった。

その両手で、両足で、矢のように打撃を浴びせ続ける飯伏に向かって、棚橋が歯を食いしばってどんどん前進してくるのだ。その形相は不動明王のようで、狂気の無表情だった飯伏が一瞬、とまどいの表情を見せる。この、飯伏のいわゆる覚醒を表す背中からの棚橋の不動明王のような形相、それにひるむ飯伏、極限状態の戦いの中で2人が見せた表情を私はきっといつまでも忘れない。

結果は皆さんご存じの通り、棚橋弘至の3年ぶりの優勝で28回目のG1クライマックスは幕を閉じた。飯伏幸太はあと一歩で、頂点に手が届かなかった。35分の激闘に3カウントが打たれた後に印象的なシーンがある。

大の字に倒れる飯伏の片手を、セコンドについていたケニーが握っている。その様を勝った棚橋が見下ろしながら、もう片方の手を取って立たせようとする、それに気づいたケニーが、とまどうような表情で握った方の手を自分に引き寄せる。棚橋はそれを見て、飯伏の手を離すのだ。その瞬間、棚橋弘至の世界から飯伏幸太は退場させられた。

武道館全体を棚橋弘至の世界に包み込み、最後に飯伏選手だけをその外へとバンって突き放した。何という勝負師。何というプロレスラー。恐るべし。 1:53 - 2018年8月13日 村田晴郎さんのツイート

バックステージで飯伏幸太は、リング上の狂気から一転して、憑きものが落ちたような表情をしていた。「こんなに頑張ったのにダメなんですか、36年間で一番頑張った1ヶ月だったのにまだダメなんですか」と子どものような顔で繰り返していた。確かにこの1ヶ月、飯伏は頑張った。何からも逃げずに、世界一過酷なリーグ戦を走り抜け、準優勝という上々の成績を残して終えることが出来た。矢野戦、SANADA戦、内藤戦、そしてもちろん6年ぶりのケニー戦、印象的な試合もたくさんある。

でもたぶん棚橋弘至は、この飯伏幸太の1ヶ月のような頑張り方を、この10年ずっとやってきたのだ。365日24時間、棚橋弘至はプロレスラーであり続け、その身もその生活もさらけ出して、一度も疲れたことなく新日本プロレスを、強いてはこの国のプロレスを盛り上げ続けてきたのだ。

「飯伏に俺からもうどうこう言うレベルはとっくに過ぎてる。あとはここ(ハート)の持ちようだから」

と試合後に棚橋は言っていた。きっとそれを、飯伏幸太もわかっている。

こんなに頑張ったのに、諦めそうな自分がいるけれど、と繰り返しながら飯伏幸太はそれでもはっきりこう言った。
「一度諦めて、2年前に復帰してからは絶対に諦めないって決めてプロレスをまた始めたので。何が何でも獲ってみせます」

棚橋弘至は強かった。そして飯伏幸太にはまだきっと出来ることがある。戦わない私は安全な場所から、その身をさらして戦う彼らをどうか無事でありますように、どうか心ゆくまで戦えますようにと祈ることしか出来ない。それでも心からの敬意をもって全てを見届けたいと思う。彼らの苦しみも悩みも、そしてそれを突き抜けた時、突き抜けた者のみに訪れる最大の歓喜を。