ワカッタラデテケ、と言ってポーゴさんは出ていってしまった

sayokom2017-06-23


最初にミスター・ポーゴさんを知ったのは、サムライTV開局直後の1996年のことだった。ポーゴさんの引退と大仁田さんの復帰がかかっていたように覚えているけれど、あちこちの会場でお願いしたりされたりしていて、そのひと言ひと言にファンも熱狂してポーゴさんを後押ししていて、プロレスを見始めたばかりの私は「プロレスってなんて浪花節で泥臭いんだろう」と思ったことを覚えている。

そしてインディーのお仕事。2002年10月に始まったサムライTVのこの番組は、ミスター・ポーゴ抜きでは成り立たなかった。「メジャーのニュースと色分けする」ためにこの番組が始まることになり、集められたスタッフ会議の冒頭で「では第1回に何をやりましょうか」となった時に当時のディレクターも、現在まで構成作家として関わり続ける須山浩継さんも、そして私も同時に「伊勢崎暗黒街化計画しかない」と断言。このスタッフならば間違いない、絶対この番組は面白くなると確信したものだった。

それ以来、伊勢崎を訪ねては火を吹かれ、ラーメンマンに中華鍋を叩かれて追い払われ、なぜか暴走族が現れたり謎の演歌歌手が登場したり、群馬県議会議長を務めたお父様の銅像の前でお父様の素晴らしさを語られたりしながらポーゴさんの伊勢崎暗黒街化計画を追いかけた。ポーゴさんが関川哲夫さんとして伊勢崎市議会選に出馬した時はその選挙戦も投開票日にも密着して、落選のショックで支持者の前で挨拶も出来ずに凹んでいるポーゴさんを遠巻きに見つめていた。

大学に入学して学長室で鎖がまを振り上げて学長をチェーンでぐるぐる巻きにしたり、ターザン後藤選手との抗争ではターザン選手の美人マネージャーだったジェラシーMAX姉さんとポーゴさんの串焼き屋さんの前で仁義なき抗争を繰り広げた。紫色の恐竜の着ぐるみを着て何故か肩にはコウモリの人形が羽根をばたつかせているジェラシー姉さんが白昼ポーゴさんを水鉄砲で撃ちまくる映像は最高にクールだったけれど、サムライTVに入ったばかりのADがこの撮影に行って帰って来るなり「とてもやっていける気がしない」と辞めたのもいい思い出だ(良くない)。

たまには良いこともしたい、といってクリスマスに「ポーゴサンタ」として恵まれないインディー選手の元を訪れる企画にも賛同して下さった。まだ無名のいちインディー選手だった澤宗紀選手が「電気代を払えない」と訴えたりするロケ(結局払ったんだろうか)の最後に訪れたのは、ポーゴさんの愛する実の息子さん。その坊ちゃんの枕元にゲーム機をそっと置くポーゴさんは、本当に嬉しそうだった。いいお父さんの顔だった。

たまには良いこともと書いたけれど、誰もが知る通り素顔のポーゴさんは極悪大王なんかじゃなくて、寂しがり屋の可愛い方だった。選挙に出馬するというので伊勢崎にロケに行ったら、仕込みでも何でもなくて大きな荷物を持ったおばあさんが道路を渡っていて、ポーゴさんは荷物を持って一緒に道路を渡ってあげていた。お腹空いたでしょう、と言って山盛りのおうどんを用意して下さっていたこともあった。太めのうどんを、野菜がたくさん入ったつけ汁に付けて食べるうどんが本当に美味しくて、武蔵野うどんというそのうどんの食べ方は今では我が家の食卓に頻繁にのぼるメニューになっている。

何度も入院しては手術して、そのたびに絶対リングに上がるんだと約束してくれた。1年前の夏にやはり伊勢崎に行った時もリハビリの最中で、大きな腰の手術をして俺はメカポーゴになって帰ってくるんだと力強く宣言されていた。足のリハビリの器具を持ち上げるその足指は変形していて、「ずっと先の尖ったウェスタンブーツを履いて試合していたでしょう、だから足の指が曲がっちゃったんです。恥ずかしいから撮らないでね」と恥ずかしそうにおっしゃっていた。長年の、激闘の証だった。

試合をするんだ、復帰するんだという気持ちがなかったらリハビリも頑張れないです、毎日生きる目標もなくなってしまう、とおっしゃっていたポーゴさん。今回もきっと、リングに戻って来るための手術中の急変だったのではないかと思っています。復帰される時にはまた取材に行きますね、と言って、ちょうど私の誕生日が近かったので私の方が花束を頂いてしまって、お別れしました。ワカッタラデテケ、と言われて這々の体で逃げ出したのに、ポーゴさんが出ていってしまうなんて。

ポーゴさん。たくさんの凄い試合、怖い思い出、そして楽しい時間を本当にありがとうございました。ここ数年はケガとリハビリで思うように身体が動かせなくて、お辛い日々だったと思います。どうか天国では思う存分、暴れて下さいね。そして時々大きな荷物を持ったおばあさんと一緒に、道路を渡ったりもして下さいね。

どうか、やすらかにおやすみください。