山本KID徳郁選手がいた時代。

山本KID徳郁選手が亡くなった。41歳という若さ、ガン闘病を公表してからまだ1ヶ月も経っていない。あまりのことに事実を受け止め切れず、KID選手の試合を思い返している。
村浜戦、宮田戦、鮮烈な試合はいくつもあるけれど、やはり思い出すのは2004年大晦日に行われたK-1 Dynamite!!での魔裟斗戦だ。階級も違う、バックボーンも違うスーパースター2人が、同じルールのもとにリングで向かい合った。KIDの挑発によって実現したこの試合だけど、魔裟斗は戦前「俺にメリットのない試合だ」と言い続けていたし、総合格闘技のリングで戦うKIDにとっては当然、アウェイのルールだった。そもそも体重差も体格差もあって、それでもKIDは魔裟斗に対戦要求したし、魔裟斗もそれを受けたからこそ実現した夢のカードだった。
1Rの目の覚めるようなKIDの左フック、2Rの打ち合い、そして3Rの劇画のようなクロスカウンター。今でもはっきりとあの時の興奮を思い出す。
格闘技はひとりでは出来ないから、素晴らしい対戦相手と相応しい舞台、そして名勝負があって初めてスーパースターが生まれる。魔裟斗vsKIDはそれを全部、兼ね備えていた。大晦日には民放各局が競い合うように格闘技の試合を紅白の向こうを張って放送し、お茶の間のテレビでみんなでそれを見ていた。ちなみにこの日、さいたまスーパーアリーナではPRIDE男祭りが行われていて、メインはヒョードルvsノゲイラである。そんな時代に生まれた、奇跡のような試合だった。
ところがそんな絶好調のさなか、山本KID選手はオリンピックを目指しレスリングに復帰するも肘を脱臼、夢は断たれる。その後の度重なるケガを思い返しても、あの時のレスリング復帰と大ケガさえなければと幾度も思ったけれど、山本家に生まれたKIDにとって、オリンピックを目指さないという道はあり得なかったのだろう。それが、山本家の、神の子KIDのさだめだったと思うしかない。
身体は小さいけれど誰よりも強気で、見た目がカッコ良くて、試合も面白くて、言葉も独特で、そして家族の物語がある。日本の格闘技が世界に影響を最も与えていた時代の、スーパースターだった。ゴングが鳴る前から相手を圧倒するあの野性味溢れる立ち姿。身体中から光が、溢れていた。
自身がケガで思うように試合が出来なくなってからも、堀口恭司のような弟子が世界に羽ばたいていった。お姉さんの美憂さんや甥っ子のアーセンの総合格闘技デビューを全力サポートした。そして世界中に、山本KIDに憧れて格闘技を始めた選手たちがいる。
リング上でもリングを降りても、激しく眩しい人生を送ったひとだと思う。でもいくらそれが激しく早回しのような人生であったとしても、短く終わっていいわけがない。2015年に11年ぶりにエキシビションで拳を交えた魔裟斗さんとの、「次は10年後」との笑顔の約束も実現して欲しかったし、堀口恭司vs那須川天心も見届けて欲しかった。
今回、2年前から闘病していたという報道があり、それ以前からいくつもケガを抱えていたKID選手。あれだけ動けるひとが、思うように動けないのはどれだけもどかしく、辛いことだったろう。いまその痛みや辛さから解放されたのであれば、どうかまた天国で思う存分、羽ばたいて欲しい。
あれだけ強い絆を持ったご家族だったので、いまその悲しみはいかばかりかと思う。どうか空から、愛するご家族を支えて下さいと祈っている。
山本KID徳郁選手、生涯を賭けた戦い、本当にお疲れ様でした。これからもあなたのいくつもの戦いとその輝きを、忘れずにいたいと思います。