それは本当に偶然の出来事だった。
私には長い文章を書くのにお気に入りの場所がいくつかあって、中でも神楽坂を上がった先にあるラカグというカフェは、開放的な雰囲気に美味しいコーヒーがあって居心地が良かった。大きな一枚板のテーブルの片隅でプロレスラーのインタビューのテープ起こしをしたり、コラムを書いたり、時には打ち合わせをしたり選手に来て頂いてインタビューをしたりもしていた。
その日は自分にとって初めての本のために文章を書いていて、コーヒーを飲んだり桃の形をした季節のスイーツを食べたりしながらMacBookを叩いていたのだけど、筆が乗っていたのでもう一杯コーヒーをお代わりしようと立ち上がったところで声をかけられた。
「お仕事中すみません、サムライTVの三田さんですよね?」
そんな、後楽園ホールならともかく、新潮社の倉庫をリノベして誕生したおしゃれスペースで声をかけられるとは思いも寄らなかったので本当に驚いたのだが、それが鎌倉のカフェ・ヴィヴモン・ディモンシュの堀内隆志さん、千佳さんご夫婦との出会いだった。
堀内さんは当時そのラカグのカフェにディモンシュのコーヒーを卸していて、その関係でお店にいらしていた。熱心なプロレスファンでサムライTVもご視聴頂いていたご夫婦はラカグでにやにやしながら原稿を書いている私に気づいて恐る恐る声をかけて下さった。私もびっくりしたけれど、たぶん堀内さんご夫婦も相当びっくりされたんじゃないかとは思う。
初対面の私たちはそこでしばし楽しくお喋りをして、今度お店に伺います、と言ってその日は別れた。コーヒーは好きだったけれどそこまで詳しくはなかった私は恥ずかしいことにその日まで堀内さんのお名前もディモンシュのことも存じ上げず、一人になってからそのお名前を調べてことの重大さと自分の無知に震え上がった。カフェ・ヴィヴモン・ディモンシュがみんなの憧れの鎌倉の伝説的なカフェであること。堀内さんがコーヒー好きの間では神様のような存在であること。なんて凄い方に声をかけて頂いたんだろう! そして、なんて凄い方がプロレスファンだったんだろう!
今から9年前、2015年3月の春のことだ。
ほどなくして私は鎌倉のディモンシュに初めて伺い、コーヒーとムケッカとパフェを頂いた。通い慣れた常連さん、ガイド片手の観光客、緊張で店を見回す修学旅行生が入り交じる店内を笑顔ですいすいと動くスタッフの方々。朗らかに、かつ丁寧にカウンターでハンドドリップするマスター。厨房で千佳さんが作り出す美味しいご飯と夢のようなパフェ。いつ訪れても変わらない、穏やかに心が満たされる空間。ディモンシュは私にとって、心がリセットされる場所だ。
堀内さんご夫妻にはそれ以来仲良くして頂いている。ラカグでにやにやしながら書いていた文章は後に「プロレスという生き方」という私の初めての単著となり、出版した時にはなんとディモンシュでマスターとトークショーも開催させて頂いた。そのイベントにはまさかの、心が滾るようなスペシャルでシークレットなゲストがふらりとディモンシュのドアを開けて入っていらしてしばしご一緒して下さり、そして風のように去っていった。
ディモンシュはこの5月で30周年を迎えたそうだ。本当に、カフェを30年続けるということがいかに素晴らしく、大変なことか、行きつけのお店がいくつもなくなってしまった私にもその偉業はなんとなくわかる。その中の3分の1に満たない時間しか私は知らないけれど、でも自分の人生にディモンシュがあって、毎日がとても豊かになった。30周年を記念して出版された
を読むと私の知らなかった頃のディモンシュと、私の知っているいつもの暖かいディモンシュがある。そしてページをめくると突然プロレスネタが飛び込んでくるから油断ならない。マスターの好きな本や雑誌が紹介されているページで、おしゃれなフランス映画のパンフレットやブラジル音楽のミューズの評伝の中に「激突 新日本プロレスvsUWFインターナショナル全面戦争」のパンフレットが並んでいる衝撃ときたら。
そういえば、おしゃれ、カフェ、コーヒー、という場所からずいぶんと離れたところにあると勝手に思い込んでいたプロレスだけど、気がつけばディモンシュファンのプロレスラーがずいぶん増えていた。堀内さんに「鎌倉の帝王」との名を授けたのはあの中邑真輔選手だ。もちろんニューヨークの帝王から来ているんだと思う。そして今お店では、30周年を記念してスタッフから送られたチャンピオンベルトが飾られていて、その下でマスターが今日もハンドドリップをしている。
堀内さんご夫妻に初めて出会った神楽坂のラカグはもうなくなってしまったけれど、鎌倉に行けばディモンシュがある。喧噪の小町通りを曲がって横須賀線の線路に向かって歩くと、ブルーと白のストライプの日よけと緑色の看板が見えてくる。階段を降りてドアを開けると、可愛いスタッフとカウンターの中のマスターが笑顔で迎えてくれるのだ。
大きな窓から明るい光が注ぐ店内で席に着き、私がオーダーするメニューはだいたい決まっていて、ムケッカと、季節のパフェまたはプリンパフェ、そしてコーヒーを何杯か。けっこうな大食漢なので一人でお食事もデザートもフルサイズで平らげるけれど、いつもゴーフルを食べたいと思っていてさすがにそこまでは行き着かない。アイスにキャラメルソースがかかったセー・ベー・エスゥーはいつか食べたい永遠の憧れだ。
今私はこの原稿を、あの時から代替わりしたMacBookで書いている。傍らにはディモンシュから取り寄せた豆で淹れたコーヒーがある。もちろんマスターのハンドドリップには遠く及ばないけれど、ディモンシュのコーヒーがここにある、そしてこの空の先の鎌倉にはディモンシュがある、と思うと、なんだか心が楽しくなる。
「プロレスラーに望むことは何ですか」と尋ねられると、いつも同じ答えを返している。怪我なく、自分の理想のリングに上がり続けられますように、と。
同じように、ディモンシュも、この先もずっと、マスターと千佳さんがお元気で、お二人の望む形のお店が続きますようにと願っている。
もちろん私も、丈夫な足腰と胃腸ととっておきのプロレスネタと共に、これからもディモンシュのあの扉を開けることを楽しみにしている。