カフェ ヴィヴモン ディモンシュと私。

それは本当に偶然の出来事だった。

私には長い文章を書くのにお気に入りの場所がいくつかあって、中でも神楽坂を上がった先にあるラカグというカフェは、開放的な雰囲気に美味しいコーヒーがあって居心地が良かった。大きな一枚板のテーブルの片隅でプロレスラーのインタビューのテープ起こしをしたり、コラムを書いたり、時には打ち合わせをしたり選手に来て頂いてインタビューをしたりもしていた。

その日は自分にとって初めての本のために文章を書いていて、コーヒーを飲んだり桃の形をした季節のスイーツを食べたりしながらMacBookを叩いていたのだけど、筆が乗っていたのでもう一杯コーヒーをお代わりしようと立ち上がったところで声をかけられた。

「お仕事中すみません、サムライTVの三田さんですよね?」

そんな、後楽園ホールならともかく、新潮社の倉庫をリノベして誕生したおしゃれスペースで声をかけられるとは思いも寄らなかったので本当に驚いたのだが、それが鎌倉のカフェ・ヴィヴモン・ディモンシュの堀内隆志さん、千佳さんご夫婦との出会いだった。

 

堀内さんは当時そのラカグのカフェにディモンシュのコーヒーを卸していて、その関係でお店にいらしていた。熱心なプロレスファンでサムライTVもご視聴頂いていたご夫婦はラカグでにやにやしながら原稿を書いている私に気づいて恐る恐る声をかけて下さった。私もびっくりしたけれど、たぶん堀内さんご夫婦も相当びっくりされたんじゃないかとは思う。

初対面の私たちはそこでしばし楽しくお喋りをして、今度お店に伺います、と言ってその日は別れた。コーヒーは好きだったけれどそこまで詳しくはなかった私は恥ずかしいことにその日まで堀内さんのお名前もディモンシュのことも存じ上げず、一人になってからそのお名前を調べてことの重大さと自分の無知に震え上がった。カフェ・ヴィヴモン・ディモンシュがみんなの憧れの鎌倉の伝説的なカフェであること。堀内さんがコーヒー好きの間では神様のような存在であること。なんて凄い方に声をかけて頂いたんだろう! そして、なんて凄い方がプロレスファンだったんだろう! 

今から9年前、2015年3月の春のことだ。

 

ほどなくして私は鎌倉のディモンシュに初めて伺い、コーヒーとムケッカとパフェを頂いた。通い慣れた常連さん、ガイド片手の観光客、緊張で店を見回す修学旅行生が入り交じる店内を笑顔ですいすいと動くスタッフの方々。朗らかに、かつ丁寧にカウンターでハンドドリップするマスター。厨房で千佳さんが作り出す美味しいご飯と夢のようなパフェ。いつ訪れても変わらない、穏やかに心が満たされる空間。ディモンシュは私にとって、心がリセットされる場所だ。

 

堀内さんご夫妻にはそれ以来仲良くして頂いている。ラカグでにやにやしながら書いていた文章は後に「プロレスという生き方」という私の初めての単著となり、出版した時にはなんとディモンシュでマスターとトークショーも開催させて頂いた。そのイベントにはまさかの、心が滾るようなスペシャルでシークレットなゲストがふらりとディモンシュのドアを開けて入っていらしてしばしご一緒して下さり、そして風のように去っていった。

 

ディモンシュはこの5月で30周年を迎えたそうだ。本当に、カフェを30年続けるということがいかに素晴らしく、大変なことか、行きつけのお店がいくつもなくなってしまった私にもその偉業はなんとなくわかる。その中の3分の1に満たない時間しか私は知らないけれど、でも自分の人生にディモンシュがあって、毎日がとても豊かになった。30周年を記念して出版された

「鎌倉のカフェ ヴィヴモン ディモンシュの30年」

を読むと私の知らなかった頃のディモンシュと、私の知っているいつもの暖かいディモンシュがある。そしてページをめくると突然プロレスネタが飛び込んでくるから油断ならない。マスターの好きな本や雑誌が紹介されているページで、おしゃれなフランス映画のパンフレットやブラジル音楽のミューズの評伝の中に「激突 新日本プロレスvsUWFインターナショナル全面戦争」のパンフレットが並んでいる衝撃ときたら。

 

そういえば、おしゃれ、カフェ、コーヒー、という場所からずいぶんと離れたところにあると勝手に思い込んでいたプロレスだけど、気がつけばディモンシュファンのプロレスラーがずいぶん増えていた。堀内さんに「鎌倉の帝王」との名を授けたのはあの中邑真輔選手だ。もちろんニューヨークの帝王から来ているんだと思う。そして今お店では、30周年を記念してスタッフから送られたチャンピオンベルトが飾られていて、その下でマスターが今日もハンドドリップをしている。

 

堀内さんご夫妻に初めて出会った神楽坂のラカグはもうなくなってしまったけれど、鎌倉に行けばディモンシュがある。喧噪の小町通りを曲がって横須賀線の線路に向かって歩くと、ブルーと白のストライプの日よけと緑色の看板が見えてくる。階段を降りてドアを開けると、可愛いスタッフとカウンターの中のマスターが笑顔で迎えてくれるのだ。

 

大きな窓から明るい光が注ぐ店内で席に着き、私がオーダーするメニューはだいたい決まっていて、ムケッカと、季節のパフェまたはプリンパフェ、そしてコーヒーを何杯か。けっこうな大食漢なので一人でお食事もデザートもフルサイズで平らげるけれど、いつもゴーフルを食べたいと思っていてさすがにそこまでは行き着かない。アイスにキャラメルソースがかかったセー・ベー・エスゥーはいつか食べたい永遠の憧れだ。

 

今私はこの原稿を、あの時から代替わりしたMacBookで書いている。傍らにはディモンシュから取り寄せた豆で淹れたコーヒーがある。もちろんマスターのハンドドリップには遠く及ばないけれど、ディモンシュのコーヒーがここにある、そしてこの空の先の鎌倉にはディモンシュがある、と思うと、なんだか心が楽しくなる。

 

「プロレスラーに望むことは何ですか」と尋ねられると、いつも同じ答えを返している。怪我なく、自分の理想のリングに上がり続けられますように、と。

同じように、ディモンシュも、この先もずっと、マスターと千佳さんがお元気で、お二人の望む形のお店が続きますようにと願っている。

もちろん私も、丈夫な足腰と胃腸ととっておきのプロレスネタと共に、これからもディモンシュのあの扉を開けることを楽しみにしている。



 

あれから1ヶ月


サバ、サバがそちらへ行ってしまってから今日で1ヶ月が経ったよ。あっという間だった、と言いたいところだけれど正直ものすごく長く感じたひと月だった。のろのろと重く、とても寒く、時間はゆっくりと過ぎて、ようやく1ヶ月。でも、たくさんの人から暖かいメッセージを頂いたり、サバの似顔絵を描いて下さった方もいらしたりしてとてもありがたかった。私は猫は、というか特にサバは媚びてなくて真顔なのが一番可愛いと思ってるんだけど、その真顔のサバの特徴がすごくよく捉えられていて、私たちは泣きながら笑った。本当にありがとうございます。

 

前へ進まないといけないからいろいろ片付けるつもりだったけれど、結局サバ専用の爪研ぎと化していたボロボロの青い巻いたままのヨガマットも、サバの食器も、サバの薬ですら捨てられてない。サバしか上がれない天袋の襖も開いたままだし、クローゼットの上の段のサバの寝床だったバスケットもそのままにしてあるよ。だから夜中にこっそり爪研ぎしにきたり、水を飲みにきたりしてもいいんだよ。

 

タビは元気にしてる。元気だけど今まで以上にやたらかまって欲しがってる。ひとりでキャットタワーのてっぺんまで登っては私たちを呼びつけるのを何度も何度も繰り返してる。かと思えば、夜中はひとりで遊んでる、これまでそんなことなかったんだけど。いつも通り寝る時は私のベッドに潜り込んで寝るんだけど、夜中にふと思い出したように出て行って、ひとりでおもちゃ引っ張り出して遊んでいたり、突然家中を走り回ったりしてる。寂しいのかな、と思ってたんだけど、もしかしたらタビにはサバが見えてるんじゃないかなあ。そうだといいなと思ってる。私にもサバが見えたらいいんだけど。

 

健康が取り柄の私だったけれど、実はこないだ初めて人間ドックで再検査の通知が来て、サバのことがあってから命ってこんなにままならないものか(当たり前のことだけど)と儚んでいたし、もしかしたらサバが呼んでるのかなとも思ってたんだけど、再検査の結果はこれがまたなんでもなかった。サバのせいにしてごめん、サバ別に全然私のこと呼んでなかったね! 頂いた命を大切に、健康と安全に心を配ってこちらの世界でもうしばらく頑張ってみるよ。

 

月命日だったからサバの好きな白身の、ちょっといいスーパーのお刺身をお供えしたけどそっちに届いたかな。もちろんその後は私たちが美味しく頂きました。サバの「えー」って顔が見えるようだよ。お刺身、という言葉とか小皿とか醤油だけで鋭く反応するところとか、長くお風呂に入ってるとガラス戸をガリガリするのとか、朝のんびり寝てると髪の毛引っ張って起こしにくるサバがいなくて張り合いがないよ。でも、こないだ朝方に、タビが寝てる側じゃない、サバがいつも上がってくる側から何かがベッドに登ってくる気配がなんとなくあって、とても懐かしい気持ちになった、寝ぼけていたけれど。

 

大切な存在がいなくなった時に「心にぽっかりと穴が開いたような」っていう言い方をよくするけれど、私にとってそれは穴じゃなくて、「サバの不在」っていうものすごく大きな存在感を常に感じ続ける、ということなんだなってようやくわかった。不在という存在感ってそれちょっと意味がわからないんですけど、って感じだと思うけれど、この1ヶ月ずっと考え続けてきてそういう表現が一番私にとってはしっくりくる。だからそれをこれからもずっと心に抱えていくんだと思う。

 

また手紙書くよ。お手紙なんてサバに書いたことなかったけど! またね。

サバのこと。


サバ、という名前はエッセイ漫画「サバの秋の夜長」「サバの夏が来た」からきている。猫を迎えることに最初は渋っていた連れ合いが「名前をつけさせてくれるなら」と言い出して、愛読していた大島弓子さんの著作から命名されたのだ。猫なのにサバ。ロシアンブルーのサバ。

 

サバ。何度この名前を呼んだことだろう。1日に10回も20回も、16年以上の間何万回もサバの名を呼んだ。今でもサバ、と声に出してみる。鼻の奥がツンとする。

 

美人で頭が良くて運動神経が良くて好奇心旺盛で、最高の家族であり同志だった。サバと暮らす毎日は喜びと驚きと温かい柔らかさに満ちていた。

 

サバがやってきて大袈裟ではなく世の中の見え方が変わった。自分の猫が可愛いのはそりゃそういうものだろうと思っていたけれど、自分の猫だけでなく他所の猫も、すれ違う犬も、道端を歩く鳩も、テレビで見かける遠くの猫も名前も知らない動物も、どこからかやってきてひっそりと壁に身を潜める蜘蛛も無農薬野菜についてきた青虫ですら愛しく思えた。私だけでなく、どちらかというと生き物全般が苦手だった連れ合いもそうだった。

 

サバとはいろいろなところに出かけた。サバは犬吠埼で水平線を見たことがあるし、菅平の夏山も歩いたことがある。その場所に出かける道中はおそらくサバにとって快適なものではなかったと思うけれど、出先では持ち前の好奇心でなんでも見たがったし、確認したがった。

 

サバと過ごしたたくさんの思い出。ひとつひとつこぼれ落ちないように残さず留めておきたいのに、いつか忘れてしまうのだろうか。

 

食べ物も生活も気をつけて定期的に検査もしていたのに猫のさだめから逃れられず、15歳を過ぎる頃から少しずつ腎臓の数値が悪くなっていた。見た目も変わらず元気に走り回っていたのに、サバの体の中では徐々に変化が起きていた。

 

忘れもしない昨年11月20日日曜日、新日本とスターダムの合同興行の日でワールドカップの開幕戦、冷たい雨の日。帰宅した私をいつも出迎えてくれるサバの姿がなく、寒いから億劫になってるんだなと最初はそれほど気にしていなかったのが、ご飯だよ、と呼んでも姿が見えない。探してみたら押し入れの中でちんまりしていた。その場所にいること自体は珍しいことではなかったのだけど、ご飯食べられないのは良くないよな、と思って翌日かかりつけの病院で血液検査をしてもらったら、急激に腎臓の数値が悪化していて即入院。少し前から甲状腺の数値も良くなくて、腎臓とのバランスを取りながら投薬をしていたのが落ち着いて、次は3ヶ月後で大丈夫ですね、とお医者さんに言われてから1ヶ月も経っていなかったのに。

 

病院にサバを預けてひとりで家に帰って泣いた。なんで気づいてあげられなかったんだろう。サバ、辛かったんだろうか。自分だけ病院に取り残されて寂しくないだろうか。翌日から毎日面会に行き、点滴で様子を見るもあまり改善されず、4日経って結局サバは帰宅した。意外とけろっとしていて、お医者さんからは「普通この数値だともっとぐったりしているはずなんですが」と首を傾げるほどに元気で、何かの間違いなんじゃないだろうか、これからばんばん回復して、あれはなんだったんでしょうね、というくらい普通の毎日が戻ってくるんじゃないだろうか。いや、そうであって欲しいと心から祈っていたんだけれど。

 

それからは自宅で皮下点滴、投薬、サバの食べられそうなご飯を探しては1日に何度かにわけて食べさせ、水を少し温めては飲ませる日々だった。全く苦にはならなかったし、むしろ赤ちゃんの時以来ずっとサバのことを考えていた。家にいる時はもちろん、離れている時ほどサバの存在を強く感じていた。そして元気だったサバも、ゆっくりと、でも確実に、弱くなっていた。

 

あと1ヶ月という単位で覚悟はしてください、とお医者さんに言われ、目標としていたワールドカップの決勝戦を過ぎ、クリスマスも乗り越えた。クリスマスの頃には全く目が見えなくなっていて、見えないながらもぶつかりながら自分の心地よい場所に移動し、水を飲み、トイレに行く姿は健気だった。後ろ足が立たなくなり、お正月を迎える頃には前足も力が入らなくなってほぼ寝たきりの状態だったけれど、サバはサバだった。見つめあって両目ウィンクができなくても、私の肩に飛び乗ったり、台所の私にご飯を催促したり、ベッドに上がってきて髪の毛をかきわけて起こしに来なくなったとしても、サバはわたしたちの家族の大切なサバで、サバが望むことならなんでもするからずっと生きていて欲しかった。

 

お正月を一緒に迎え、もう少し頑張れそうかな、と思った矢先にその日はやってきた。1月3日の夕方、サバのための買い物をして帰宅し、ホットカーペットの上でまどろんでいるサバを確認してMacに向かっていたら、大きな声でサバに呼ばれた。体の向きを変えて欲しいのかな、と思って抱き上げたら体の力が抜けていて、慌ててタオルで包んで抱えてサバの名を呼び続けた。そしてゆっくり炎が消えるように、サバはあちらの世界へいってしまいました。顔も毛並みも綺麗なままで。

 

悔いが全く残らないかといえば嘘になる。あの時抱き上げなければ良かったんじゃないか、もっとずっとつきっきりで目を離さずにいたら良かったんじゃないか、遡ってもっと早く体調の変化に気づけなかったのか、ベッドで腕枕してまどろんでいた時に遅刻してもいいからもっと一緒に寝ていたら良かった。奇跡なんてそうやすやすと起こらない。

 

我が家にはもう1匹、タビという白黒の靴下猫がいる。生まれて1ヶ月くらいで母猫とはぐれて家の近くで夜毎泣いていたのを見るにみかねて私が連れて帰ってきて新しい家族になった。サバが2年目の夏のことで、正直サバは戸惑っていたと思う。最後までお互いを毛繕ったり抱き合って寝るような関係にはならなかったけれど、タビはなんでもサバの真似をして育った。トイレも、猫草を食べることもサバを凝視して覚えた。サバの食べているものを食べたがり、サバの寝るところで寝たがり、サバが遊ぶおもちゃを欲しがった。サバは金持ち喧嘩せずのポリシーだったのでだいたいは譲っていたけれど、たまにタビのちょっかいが過ぎて取っ組みあったり追いかけっこに発展することがあり、100%サバが勝った。サバはタビに400戦喧嘩を売られて420戦無敗だった。そんな圧倒的な、血はつながらないけど姉さんと弟の関係だった。猫が2匹いることで猫vs人間ではない、猫同士の社会が形成され、それはまた見ていてとても興味深く面白かった。

 

サバの不在をどれくらいタビが理解しているかわからない。永遠に末っ子気質のままタビも14歳になって相変わらず赤ちゃんみたいな立ち振る舞いなのだが、今はその屈託のなさが救いだ。でももうタビが真似をする存在はいない。タビは自分でこの家の居心地の良い場所、この時間はここが日当たりが良くて、この時間になると私が帰ってきて、この時間なら連れ合いにかまってもらえる。そういうことを理解して、その場所を探さないといけない。でもなんとなく、タビはタビなりに物足りなさ、寂しさ、そして私たち人間の寂しさを理解しているようで、暇さえあれば私たちを呼んで撫でて欲しがったり傍らにいたがったりしている気がする。気のせいかもしれないけど。

 

タビはこの先も誰かの代わりではなくタビの人生を思いっきり、できるだけ長く楽しんで欲しい。健康については私が最大限気にかけてあげるから。タビはそれでいいんだよ。

 

この家のそこかしこにまだサバの余韻が残っている。サバのいない世界を生きる私、と綴ろうと思ったけれどまだ無意識のうちにサバの居場所を確認してしまう。帰宅すると必ず迎えてくれた玄関、水を飲みにくる風呂場、人を踏み台にしてひらりと飛び乗るクローゼット、気持ちよく風が当たるキャットタワー。

 

一番のお気に入りの、それだけは絶対タビにも触らせなかったキャットニップ入りのお手玉ひとつだけ持って、サバは向こうへ行った。サバ、私はもうちょっとこっちでやらなければいけないことがあるから頑張るよ、タビもいるしね。でもいつかそちらへ行ったら、たとえロシアンブルーが何十匹いても絶対にサバを探してみせるよ。そしたらもう一度、両目でウィンクして一緒にかくれんぼしたり、お昼寝したり、窓からお花見したり雪見したりしよう。約束だよ。

 

 

サバ、今までありがとう。またね。

 

葛西純「狂猿」という映画。

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葛西純選手のドキュメンタリー映画、「狂猿」を試写会で拝見した。少し前に「ノンストップ」という韓国映画を新宿の映画館で見た時にその予告チラシが貼られていて、おお、完成したんだな、見てみたいなと思っていたところだった。

 

この映画にはわたしたちプロレスファンがよく知っている葛西純と、知らなかった葛西純が両方存在する。デスマッチのカリスマでリング上で血塗れになりながらニヤリと笑う葛西純と、身体の傷は癒えても試合に向けてモチベーションが上がらない、と小さな声でつぶやく素顔の葛西純。自らの体を蛍光灯で切り刻む葛西純と、小さな娘の手を引き陽の当たる公園を歩く葛西純。そのどちらも本当の葛西純だ。

 

葛西純について語るメンバーがすごい。Mr.デンジャーの松永光弘大日本プロレス社長の登坂栄児。藤田ミノル伊東竜二竹田誠志といったデスマッチファイターから、新日本プロレスのロゴをバックに語る本間朋晃。そのいずれも、的確に、葛西純というプロレスラーの魅力を捉えている。

 

そして映像に圧倒される。いつも会場で見ているデスマッチ、そしてサムライTVのニュースや中継で見ているデスマッチと、全く違って見える。まず画角が全然違う。試合全体を見せるためのプロレス専門チャンネルとは異なる、ものすごいアップの映像。画面いっぱいに広がる選手の顔、背中。セコンドの位置から見ているような足元ギリギリの試合。同じ試写を見ていた吉野恵悟レフェリーが「あの映像は僕らが見ているのと同じ近さですよ」とおっしゃっていた。そう、カメラが近い。それは実際の距離感も、そして葛西純選手という対象との心の距離感も。監督はどれほどの信頼関係を築いていらしたんだろうと思う。

 

またこの映画は、コロナ禍に見舞われた2020年をどうプロレス団体FREEDOMSが生き抜いたか、という貴重な記録映像でもあると思う。決断力があり責任感のある佐々木貴、若く身体能力が高い王者の杉浦透、若手もみなひとりひとり画面の中で息づいている。超満員のお客さんで盛り上がる2019年のブラッドクリスマスから、興行中止、そして再開。

 

葛西純は確かにカリスマだけれど、悩んだりとまどったり、愚痴をこぼしたりもする。それでいてリング上では誰にも負けない光を放つ。超人ではないからこそ、その凄さが際立つ。わたしたちはデスマッチで生き抜いた葛西純がリングを降りて愛する息子のもとに一目散に走っていったシーンを覚えているし、実現しかけては何度も何度も延期した伊東竜二戦が実現した後に「俺っちは引退も考えたよ」と涙声で伊東に語りかけたことも覚えている。それでも葛西純は生き抜いてきた。この映画のサブタイトルは、「生きて帰るまでがデスマッチ」だ。

 

懐かしい試合映像もたくさんある。サムライTVの25年分の貴重な資料が生かされている。葛西選手の大ファンはもちろん見るだろう。そうでない人たちにもこの映画が届いてほしい。今日の試写会の舞台挨拶で佐々木貴選手がいいことを言っていた。

 

「この映画はいろんな訴え方が出来ると思います。プロレスをよく見る人、プロレスをたまに見る人、プロレスを全然見ない人。いろんな人に見て欲しいです。」

 

わたしはデスマッチを見ると、自分が生きていることを確かめているような気持ちになる。勝った選手も敗れた選手も自分の足でリングを降りられると心から良かったなと思うと同時に、自分も生きてこの試合を見届けることが出来て良かったと思う。この映画も間違いなく、その生き残る喜びを思い出させてくれるし、改めてプロレスラーにはどうぞ元気でいて欲しいと願う気持ちが強くなる。

 

「狂猿」。5月28日(金)からシネマート新宿、シネマート心斎橋ほかで公開です。早くみんなに見て欲しい。そして早くみんなと語り合いたい! ほら、最近プロレスの試合見た後にみんなでわいわい言い合えないじゃないですか。だからぜひこの映画を見て、みんなで語り合って欲しい。プロレスの素晴らしさを、デスマッチの尊さを、葛西純選手と同じ時代に生きて葛西選手のデスマッチを見られた喜びを。

kyoen-movie.com

 

 

花ちゃんのこと。

初めて花ちゃんに会ったのは、確か桂スタジオだったと思う。お母さんである木村響子選手のデスマッチデビュー戦を見に来ていて、試合後に傷だらけのお母さんの姿を見て泣き出したら「泣くなら来るな!」と叱られていた。今から14年前のことで、恐らく花ちゃんはまだ8歳だった。この子は強い子になるな、と思っていたら、美しく強い女子プロレスラーになった。それが、木村花選手だった。

個人的な付き合いがあったわけではないけれど、いつも会場で見かけると駆け寄って声をかけてくれた。その名の通り満開の花のような明るさと笑顔で、挨拶されると何だか嬉しくてドキドキした。

見かけるたびにどんどんイメージを変え、身体も鍛え、立ち振る舞いも堂々としていた。圧倒的な入場パフォーマンスと、ダイナミックな試合運び。カッコ良かった。

ある日の後楽園大会にプロレスマスコミではない取材が入っていて、花選手を撮影しているように見受けられたので尋ねてみたら、こう答えてくれた。

みたさん、わたし実は今度テラスハウスに出るんです。自分でオーディション受けました。みんな顔面偏差値が高くて焦ってます。プロレスと平行して頑張ります!

凄いね花ちゃん。有名になるね! 楽しみにしていますね。

私のその答えは、間違っていたんだろうか。

プロレス入りを決めたのも、リアリティ番組のオーディションを受けたのも、彼女が選んだ道ではあっただろう。もっとプロレスをたくさんの人に見て欲しい。それも彼女の願いであったと思う。

プロレス界を変えてくれるかもしれない存在だった、間違いなく大スターになれた、日本や女子プロレスという枠を越えて活躍出来る存在になり得た。どれもその通りだと思う。だけどそれ以上に、ひとりの女の子として、ひとりの人間として、生きていて欲しかった。

黒髪も、ピンク色の髪も、長い三つ編みのエクステも、蛍光グリーンのコスチュームも、真っ赤な口紅も、みんな似合ってた。あの入場時に付けているガスマスクで綺麗な空気だけ吸っていて欲しかったし、カラフルなマシンガンで嫌な言葉なんて全部撃っちゃえば良かった。

いまの「緊急事態」が解除されて、いつかまたプロレスが満場のお客さんの元に戻ってきても、そこに花ちゃんはいない。木村花選手がいない世の中を、わたしたちは生きていく。

悔しくて悲しくてつらい。でも、花ちゃんはどれだけ悔しくて悲しくてつらかっただろうか。生きているって、そんなつらいことだろうか。でも、そんな悲しみ苦しみからいま、花ちゃんは解き放たれたのだろうか。

花ちゃんがどうかやすらかでありますように。そして花ちゃんを愛するひとたちが、どうか守られていますように。

飯伏幸太、たったひとりのG1クライマックス初優勝

飯伏幸太G1クライマックスを優勝した。あの銀色のテープが舞うなかで飯伏が両拳を天に突き上げている様を目の前で見ても、なんだか現実とは思えなくて心が落ち着かなかった。

 

今年のG1で飯伏幸太は苦しんでいるように見えた。勝敗の数字以上に、身体と心がなかなか一致しなくてもがいているような感があった(実際はどうなのかはわからない)。それは初戦で怪我をした左足首のせいだったかもしれないし、新日本に入団して目に見える結果を残さなければいけないという使命感だったかもしれない。

 

勝戦の相手はジェイ・ホワイト。初対決だし、どちらが勝っても初優勝だ。そして2人が向かい合って今更ながらに驚いたのは、ジェイは飯伏よりも10歳も若いということだ。いつの間にか飯伏幸太は37歳になっていた。

 

しかしジェイは巧い。そのファイトスタイルは若々しさや破天荒さを売りにしない。驚くほどに冷静で、的確で、緩急のつけかたが見事だ。凄い選手だなと思う。

 

果たして優勝決定戦もジェイは飯伏をすかし、じらし、嘲笑した。キャリアわずか6年、G1出場2回目で優勝決定戦進出も初めてとは思えない戦いぶり。そんな中でも息を呑んだのは、ジェイが茶化すかのように飯伏の頬を張るか張らないかの瞬間に、マッハの早さで殴り返されて倒れたシーンだ。何が起きたのかわからなかった。

 

終盤のブレードランナーとカミゴェを巡るめくるめく攻防を制して、飯伏幸太は遂に、G1クライマックスを制覇した。初めてG1に参戦してからもう6年が経っていた。

 

トロフィーを受け取り、優勝旗を受け取り、マイクで喜びを伝え、銀のテープを全身で受けとめ、ファンと喜びを分かち合って花道を退場する。這うようにバックステージに戻ってきて、絞り出すようにコメントする。嬉しいですよ、皆さんにわかりますか?さいっこうに嬉しいですよ、最高に、最高に、とうわごとのようにつぶやきながら目の前の瓶ビールを1本ずつ机の上に並べ出す。取り囲んだマスコミ陣に不安な空気が流れる。と思ったら、

 

「乾杯しましょう!」

 

と。カメラマン、メモを取る記者に無理矢理ビールを渡し、乾杯しましょう!と。繰り返すが瓶ビールでその場に栓抜きはなく、どうするのかと思ったら無理矢理飯伏は素手で王冠を抜いたらしく、瓶を受け取ってしまったマスコミ勢にしても当然仕事中だしそもそも素手で王冠を外すようなことは出来ないのでなんとなくみんな「か、かんぱい」と言ったふうに瓶を手持ちぶさたにしていたらなんとビールを一気のみする飯伏幸太

 

飯伏らしい、と言ってしまえばあまりに飯伏幸太らしい振る舞いではあるのだけれど、何だか少しいたたまれない気持ちもあった。思えば前日、優勝決定戦の相手がジェイに決まり、1vs1で戦おうぜ、と言われたそばから襲われて椅子で滅多打ちにされて誰も加勢に来なかった時から飯伏幸太はひとりだった。優勝戦にジェイはバレット・クラブのメンバーを大勢引き連れて、つい先ほど加入したばかりのKENTAまで付けてきたのに飯伏のコーナーには誰もいなかった。優勝して、喜びの声を伝えて、トロフィーを掲げる傍らにも誰もいなかったし、バックステージに瓶ビールは並んでいたけれど誰も「飯伏さん、優勝おめでとうございます。乾杯!」と言ってくれなかったしビールをかけてくれる人もいない。でも乾杯はひとりでは出来ないから、飯伏は残る力を振り絞ってせいいっぱいの気持ちでマスコミにビールを配って乾杯したんだろう。

 

最後まで1人で心細くなかったか、との問いに

 

「いや、僕はずっと1人です。というのはもうやめましょう。いや、寂しすぎました。1人ですよ?」

 

と答えたのは、たぶんどちらも本心なんだと思う。前日だけでなく、このシリーズずっと、いや新日本に入ってから、もしかしたらそのずっと前から飯伏幸太はひとりで戦っていたのかもしれない。プロレスは個人競技だけれど団体競技だ、とはよく言われることだけれど、リングに上がって戦うのはそれが例えタッグマッチであろうが1人だから。

 

G1クライマックス優勝の美酒を味わうことが出来るのは、たった1人だけ。確かに20人の出場選手、その何倍もいるスタッフ、その何万倍もいるお客さんと一緒に走り抜いた2019年の夏だけれど、最後に勝ち残ったのはたった1人、飯伏幸太だけ。飯伏はその恍惚と引き換えに、この日ひとりでその美酒を味わうことになった。

 

振り返れば開幕戦のダラス大会から、本当に面白いG1クライマックスだった。ランス・アーチャーの大爆発があり、ウィル・オスプレイの精度と的確さに息を呑み、ザックの関節技にしびれBrexitへの憂いに共感した。モクスリーの華と時折見せる可愛さ、石井智宏の説得力、SANADAのコンディションの良さとオカダの圧倒的な安定感、そして最後の最後に最高の笑みを見せたKENTA。

 

今回、飯伏幸太はひとりでその栄冠を勝ち取ったけれど、これからも続いていくプロレスの旅の中で、また良い相棒を見つけることもあるだろう。懐かしい再会もあるかもしれないし、新しい出会いもきっとある。ひとりでも旅は出来るけれど、せめて嬉しい時に一緒に乾杯をしてくれる相手が、この先、飯伏幸太に寄り添ってくれるといいなと思っている。

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 群雄割拠其の四〜ふるさと祭り東京2019@東京ドーム

sayokom2019-01-15


「テレビでやってるプロレスだけが、東京でやってるプロレスだけがプロレスじゃないんです!」
栃木県からやってきて、この日晴れて天下統一の旗を手にしたEAGLEプロレスの吉田和則が、東京ドームのリング上で叫んだ。毎年1月に日本中の美味しいものや賑やかなお祭りを集めて東京ドームで開催される「ふるさと祭り東京〜日本のまつり・故郷の味〜」で、初めてプロレスの試合が行われたのだ。

「『群雄割拠』を始めてみたものの思うように集客が伸びなくて、第1回から2回、3回とやるうちに本当にこれを続けていていいんだろうかって悩み始めていたんです。そんな時に3回目の後楽園大会に東京ドームの方がいらしていて、『この群雄割拠のコンセプトはうちで開催しているふるさと祭りと同じじゃないですか!ぜひふるさと祭りでプロレスやりましょう!』って向こうから声をかけて頂いたんです」

試合の間もずっと「ふるさと祭り」のハッピを着続けていた佐々木貴は、イベント終了後に充実した表情でこう語ってくれた。プロレスリングFREEDOMS佐々木貴がプロデュースする「群雄割拠」とは、2017年8月に始まった全国のローカル団体を集めて覇権を争う大会で、これまで興行が3回行われている。そういえば、第1回の興行の時に「群雄割拠」について佐々木は、「プロレス版の地方物産展です」と言っていたのだ。地方から東京へ、そしてまた東京から地方へ。このコンセプトは確かに、「ふるさと祭り」とぴったり合う。

狭い日本と言うものの実際のところ、思いのほか日本は広く、そして色とりどりだ。毎年この時期にドームで「ふるさと祭り」が開催されていることは知っていたけれど、いつも横目で見ながら後楽園ホールに向かっていた。今回、初めてドームに入って見てその賑わい、その出店数の多さ、多様さに驚いた。そこにはカニもいくらも、餃子ものどくろも、唐揚げもザンギも、メロンソフトも抹茶ソフトもみんなあった。ねぶたもお神楽も、太鼓も三線も、盆踊りもよさこいもあった。日本広いなあ、みんな違ってみんないいなあ、楽しそうだなあ美味しそうだなあとしみじみ思った。

そんな中でプロレス、だ。文字通り、北は北海道の道南リングから南は沖縄の琉球ドラゴンプロレスまで、日本各地からプロレス団体がやってきた。リングサイドに座る熱心なプロレスファンもいれば、美味しいものを食べに来たけどプロレスやってるみたいよ?と見に来た老若男女のお客さんもいる。マンモス佐々木の大きさに驚き、グランパショマスク4号にかけられる「ヨンさまー!」というかけ声に「あのマスクはヨン様なんだ!」とまた驚く。ヴァンヴェール・ネグロとヴァンヴェール・ジャックのリアル親子対決ではひときわ華奢なジャックに「え、あのマスクの子、子供?」と不安げに囁かれるも、その鮮やかで美しい空中殺法で歓声に変わる。愛澤No.1と"救世忍者”乱丸のやり取りに笑い、竹田誠志の傷だらけの背中にまた驚く。

佐々木貴は「どんなお祭りでもどんなイベントでも、プロレスは絶対に盛り上がるんですよ。お笑いもアイドルもいいけど、一番盛り上がるのはプロレスなんです」とはっきりした口調で言った。確かに、全てを包括出来るのはプロレスなのかもしれない。笑えて、うっとりして、そして声の限りに応援する。もっと私たちはプロレスに自信を持っていい。

メインは天下統一幟旗争奪戦、王者の琉球ドラゴンプロレスにEAGLEプロレスが挑む。イーグルといったら地方各地にプロレス団体が出来る前から活動している老舗団体だ。ベテランの域に達していても変わらず美しいスワンダイブを放つ吉田和則、そして「チーム若作り」からしばらく経つというのに変わらず若々しい近藤博之の腕サソリ。試合はトランポリンも駆使してイーグルが勝利し、天下統一の幟旗を琉球から栃木が奪取した。そして、冒頭の吉田の叫びである。胸に染みた。

佐々木貴は「プロレスの可能性はまだまだこんなもんじゃ終わらないです」と言った。そして「今日こういう催しがあって、平日の夜にプロレスでこんなに盛り上がった、たくさんお客さんが集まったってことを皆さん発信して下さい」と私たちマスコミの顔をひとりひとり見ながら、笑いながら念を押した。「皆さんも自覚を持って、責任持って発信して下さい! みんなで、俺らも、お客さんも、メディアの皆さんも頑張ってみんなでプロレス背負って頑張りましょう!」とハッパをかけた。かつてそのリーダーシップから「生徒会長」と言われた佐々木だけれど、今でもその統率力は変わらない。佐々木のそういうところが大好きだ。

「俺はこんなちっぽけな団体だけれど、今日はプロレスを背負わせてもらってリングに上がりました」と佐々木貴は言った。確かにプロレスリングFREEDOMSは大きな団体ではないかもしれないけれど、信念を持って、はっきりとしたコンセプトがあって「群雄割拠」をプロデュースしていたからこそ、毎年期間中40万人を集めるビッグイベントの方から「一緒にやりましょう」と声をかけてもらうことが出来た。今日の盛り上がりを見て、声がけしてくれたドーム側の人たちは即座に、また来年やりましょう、今度はこんなことをやりましょう、と興奮気味に口々にアイデアを出してくれたという。意志あるところに、チャンスはやってくる。そして、プロレスはまだまだ可能性がある。あなたの近くに、どうかプロレスが届きますように。