我闘雲舞のみんなが見る夢は

sayokom2015-08-13


我闘雲舞初の後楽園大会は全てがきらきらしていました。いまを生きる少女たちのきらきらした歌声。タイからやってきたプロレスラーたちのきらきらした笑顔。色とりどりの紙テープ、躍動する命、王者の貫禄、敗者の悔しさ、そしてお客さんたちの歓声。さくらえみ選手が新しく作り上げた楽園は、海を越え文化も言葉も越えて大きな可能性と幸せを運んできてくれたのです。

さくらさんはずっと、自分の理想を追い求め、それを自らの手で作り出してきた人です。そしてそのアイデアはいつもみんなを驚かせる。体操教室を始めて、そこに通う少女たちをプロレスラーとして育てる。リングのないところでマットだけ敷いて試合をする。そのマットの上でレスラーが歌ったり踊ったりする。誰もが思いつかないことを思いつき、そしてそれを実行してしまう。

なのでさくらさんが何を言い出してもだいぶ驚かないつもりではいたんだけれど、アイスリボンを退団するとサムライTVの番組内で突然発表した時には動揺したし、それからほどなくしてタイに渡り「タイで女子プロレス団体を作る」と宣言した時には更に仰天しました。

あれから3年が経ち、我闘雲舞は日本人選手4人、タイ人選手10人という立派なプロレス団体になっていました。市ヶ谷を常設会場にし、年に何度か板橋や新木場で試合をするという形で団体を続けていくことはもちろん出来た。でもさくらさんは昔から「知ってもらえないということは、存在していないのと同じ事だ」と繰り返し言っています。心優しいファンに囲まれて、ちいさな楽園を手のひらで大切に守っていくことを、さくらさんは良しとしなかった。今回の大会パンフレットの冒頭で、さくらさんはこう宣言しています。

「20年続けてみて思ったのは、やめなければ今後も続けることができてしまうということでした。
優しいファンに囲まれ、リスクを最小限に、冒険をしなければ、おだやかな海をいつまでも泳ぎ続けることができてしまいます。
でも、それを、20年選手が良しとしてはいけないのではないか。
ベテランだからこそ、過去をふりかえることなく、貢献していける何かがなければ続けてはいけない。それが、今を一生懸命につくりだしているプロレスラーへの尊敬の気持ちの表し方だと思いました。」

いつもさくらさんの言葉はぐさりと刺さります。

直前までチケットが売れていないと嘆き続けたさくらさんでしたが、この日は800人という胸を張っていい数のお客さんが集まりました。そしてその熱は半端なかった。ここ数日ツイッターでは、誰に頼まれたわけでもなくファンたちが口々に「我闘雲舞の後楽園にみんな行こうよ、絶対幸せな気持ちになれるから」と自らが宣伝をかって出ていた。我闘雲舞立ち上げからずっと映像制作に携わっているタノムサク鳥羽さんは、どうやってプロレスという文化がなく、純粋無垢な国民性のタイでさくらさんがプロレスラーを育てることが出来たのかを、かの国の事情に詳しい立場から細やかに説明してくれた。そして、当日会場にはビジョンがないのに、我闘雲舞旗揚げの経緯やメインの里歩vs「ことり」、さくら選手自身の20周年記念試合について、煽りVTRを作ってyoutubeの公式チャンネルにupしていた。鳥羽さんが「事前に見てね」と書いていらしたのですが、当日初めて会場で見たい人もいるだろうな、と思ってそんなに拡散しなかったのですが、ああそうか、会場にビジョンがないから事前に見てねって鳥羽さん言ってたのか!と今日気づき、こんなことならもっと宣伝しておけば良かったと悔やんだり。

さくらさんが「人たらし」であることは良く知られていることですが、映像の鳥羽さんといい、タイに長期滞在をしてタイ人レスラーを指導した円華選手、タイ人レスラーにとってもガトムー日本人部隊にとっても心強いパートナーであるマサ高梨選手、気づけばなぜかTシャツ屋さんになっていた大鷲透選手など、そうそうたるメンバーが我闘雲舞とさくらさんに巻き込まれていました。みんなが困った顔をしながらさくらさんのペースに乗せられ、そして若い選手たちの良き相談相手となり、我がことのように我闘雲舞の行く末を案じている。私が週プロモバイルで連載しているコラムに我闘雲舞後楽園大会に行こうよ、と書かせて頂いたのですが、いったい今日何人の人に「三田さんありがとうございました」と言われたことでしょう!我闘雲舞所属の人も、そうでない人にも!

後楽園は歌のメドレーで華やかにスタートし、少女たちのキラッキラした姿にもう泣きそう。リングサイドで怪しげな風貌の鳥羽さんがずっとカメラを回しているのを見てなお泣きそう。

そしてタイの選手たち!彼ら、彼女たちにとって後楽園はどんな場所だっただろうな、と思っています。若く、たくさんの可能性がある彼ら彼女たちに「プロレスラー」という道を指し示し、プロレスの技術だけでなく礼儀も厳しく教え込み、繰り返し夢を説き続けたさくらさんの尽力は素晴らしいと思うし、彼ら彼女たちにとって日本が、ひとつの夢が叶う場所であって欲しい。試合は緊張していたし、そもそもリングでの練習はみんなほとんどしたことがなかったと思うのですが、誰かがちょっと失敗しても「もう1回やろうよ!」と会場の全員が、いや本当に誇張なく全員が支える雰囲気になっていたのが凄かった。さくらさんはタイ人選手たちにとってお母さんだった、と鳥羽さんは言っていたけれど、この日は会場の全員が、タイ人選手たちのお母さんみたいな気持ちになっていました。全試合が終了し、出場選手全員がお客さんの間を握手で廻る恒例の時間帯に、タイ人選手たちがキラキラした笑顔でタイ式の挨拶(ワイ、という合掌)をしながら握手をして廻っているのを見てまた泣きそうになりました。

そしてこの日はさくらえみ選手にとってもプロレスラーデビュー20周年試合という大切な試合がありました。さくら&真琴組vs志田光&帯広さやか組というタッグマッチで、かつては一緒に夢を見たけれど別々の道に分かれたかつての教え子たちが、久しぶりに同じリングに立つ。試合以外でも南月たいよう(夏樹、から改名)さんやしもうま和美さん、美しく成長したさくらえびきっずたち、さくらさんの20年を彩ってきた人たちが数多く集まっていた。たぶん、さよならした時にはいろいろあったんだと思います。でも、またプロレスのひと言で集まることが出来る。久しぶりにフィナーレで客席を廻る志田光選手を、かっこいいなあと思って見ていました。

メインの里歩vs「ことり」、現役高校3年生vs高校2年生。かつてさくらさんに負けて、「自分もいつか成長して、いまと同じプロレスが出来なくなってしまうかもしれないけれど」と涙ながらに訴えた少女は、我闘雲舞絶対王者に成長していました。その強さ、安定感、冷静さ、そして包容力。この試合を南側のてっぺんから見ていた、という木高イサミ選手は「里歩選手に完璧にHARASHIMAさんがだぶって見えた」と唸っていましたが、みな同感でした。あまりに里歩さんは強かった。そして言い尽くされたことではありますが、「ことり」選手はこの悔しさが間違いなくもっと彼女を強くする。あの気の強さ、柔道仕込みの鋭く美しい投げ技、彼女がこれからどんなプロレスラーに成長していくのか。里歩選手をずっと私たちが見続けてこられたように、「ことり」選手の成長をずっとこれから追いかけることが出来る。嬉しいことです。

そして鳥羽さん。絶対鳥羽さん今日はカメラ廻しながら泣いちゃうだろうな、嬉しかったろうな、と全試合終了後に鳥羽さんに話しかけたら、思いもよらない答えが返ってきたのです。

「いやあ俺は怒ってるよ。ダメだよ、全然タイの選手たちがダメだった。体力がなさ過ぎる。なんでもっとスクワットなり何なりタイでやってこなかったんだろう。そういうのお客さんはシビアに見るからね。このままじゃ絶対にダメなんだよ」

びっくりしました。鳥羽さん怒ってたのです。それはきっと、もっと彼らなら出来るはずだ、という悔しさの裏返しなんだと思います。初めての後楽園ホール、たくさんのお客さん、リングでの試合、異国の地、何をとってもタイ人選手たちにとっては緊張の連続だったはず。もしかしたら、実力を発揮し切れなかった選手もいたのかもしれません。でも、自分たちの試合が終わり、みんなメインの里歩vs「ことり」の試合を、セコンドや、花道奥からじっと見ていた。凄いな、と思ったはずです。その凄いな、が、「よし、僕たちも頑張ろう」に繋がればいい。まだまだ始まったばかりなんだから。

さくらさんは興行終了後に「これが最終回だったらどんなに美しいだろう」と冗談めかして言っていましたが、それを知った里歩選手は驚きながらも「でも続いちゃうんで!続く限りはまた後楽園やりたいです」と宣言していた。頼もしい限りです。そして道はまだまだ続いていく。

我闘雲舞の定番のかけ声があります。

「リャオサイ(左かな)?」
「メシャーイ(違うよ)!」
「リャオカー(右かな)?」
「メシャーイ(違うよ)!」
「トンパーイ(まっすぐかな)?」
「シャーイ(そうだよ)!」

これは米山香織選手がタイに滞在している時、タクシー運転手さんと交わしたやり取りから生まれたかけ声だそうです。世界中からいろんな人が右かな、左かな、いやまっすぐだな、と迷いながら進んできて、この日の後楽園ホールにたどり着いた。タイから、日本から、ドイツから、アルゼンチンから、中国から。そしてまた別れて、右かな、左かな、と進んでいるうちに、いつか再会できる。いまタイでさくらさんの右腕として我闘雲舞を切り盛りしているリングアナのプミさんは、こう書いていました。

「1人で見る夢はただの夢、みんなで見る夢は現実になる夢。」

これからもプロレスのリングの上が、みんなの夢が叶う場所でありますように。そしてその輝きを、また私も全身で感じ取りたいと思っています。

新日本プロレスワールド 「飯伏幸太 ゴールデン・スターのひみつきち」

sayokom2015-07-17


新日本プロレスワールドで飯伏幸太選手のオリジナル動画、「#13 ゴールデン・スターのひみつきち」という動画を見た。このNJPW Documentaryというシリーズは選手のプライベートな日常を見せてくれるシリーズで、真壁選手が地元に帰って同級生とケーキ屋さんに行ったり、後藤洋央紀選手が酔っていたり、内藤哲也選手がお父さんと語り合っていたりと選手の柔らかな素顔が垣間見えて面白いのだが、飯伏選手はたったひとりであらわれる。

その15分の動画の一番最初からまずあまりに飯伏選手らしくて最高。そして、カメラを通して語りかけているディレクターとの関係が親密であることがわかる。

どうやらいまとても忙しいらしい飯伏選手の日常とはつまり、ひとりで行っている練習のことである。よく知られていることではあるが飯伏選手はデビュー以来ほぼずっと、どの団体の合同練習にも出ずに単独でプロレスの練習をしてきた。語られるその理由もとても飯伏選手らしい。そしてかつてベスト・オブ・ザ・スーパージュニアで初めて獣神サンダーライガー選手と対戦した時に「もっとグラウンドレスリングを身につけた方がいい」と忠告された飯伏選手ではあるが、じゃあどうやってグラウンドの技術を身につけたのかもまた、とても飯伏選手らしい。

たったひとりで、よく公開練習などの映像では見たことがあるあの千葉のアマチュアプロレスの道場で、もくもくと飯伏選手はまずストレッチをする。ああ、飯伏選手もちゃんとストレッチするんだ!という新鮮な驚き。むちゃくちゃをやっているようでいて、当然だけれど自分の身体はきちんとケアしている。そして自分の身体がいまどういうダメージを受けているかももちろん自分でわかっている。

ひとりで黄色いストレッチボールを相手に練習を繰り返す姿は、まるで砂場で遊ぶ子供のようでもあり、求道者のようでもある。確かに子供の頃ってたいした道具がなくても砂場や原っぱで永遠に遊べたし、ひとりでも時間があっという間に過ぎたものだ。きっとあの頃私たちが持っていたピュアな気持ちを飯伏選手はプロレスに対して永遠に持ち続けているから、私たちは飯伏選手に惹かれるんだろう。そしてこの黄色いストレッチボールが伊橋剛太選手に見える、ということも付け加えておきたい。

どうやって飯伏幸太のあの誰にも真似出来ない動きが生まれるのかが、解き明かされる。それは意外にも地道で、急に空から降ってくるようなものではない。天才というのは「努力することが出来る天才」のことを言うのだ、と誰かが言っていたけれど、本当にそうなんだと思う。あの生まれっぱなしみたいな飯伏幸太だけれども、何もしなくても「夢が人の形をしている」存在になり得たわけじゃないのだ。

そして、撮影しているスタッフを気遣う場面に、グッとくる。ただ天真爛漫で天然で、という側面で語られがちな飯伏幸太という人の、優しさ。

この「ひみつきち」で飯伏幸太は作られている。この動画を見ると、私たちがよく知る飯伏幸太と、知らない飯伏幸太がふたり、いる。デビュー前から、そしてプロレス界を駆け上がりDDT新日本プロレスの2団体所属の時代の寵児になった今も、この道場を飯伏選手に好きに使わせてくれている人がいることに心から感謝すると同時に、そんな単独行動を許してくれた所属団体の人たちにも感謝したい。そして今回の動画は「前編」ということなので、「後編」もとても楽しみだ。

新日本プロレスワールド NJPW Documentary #13 飯伏幸太 ゴールデン・スターのひみつきち
新日本ワールド

追伸。新日本ワールドの別の番組で、飯伏選手が夢として
『2020年の東京オリンピックの開会式でプロレスをやる。』
と語っていたことを知った。最高すぎる。

DDT6.28後楽園~あの日からずっと繋がっている

ほんとうに、あっという間の出来事だった。

DDT6.28後楽園、セミファイナル。この日は8.23両国大会のメインイベントの挑戦者を決めるKING OF DDTトーナメントの準決勝と決勝があり、その間に組まれているセミファイナルにそれほどの大きな意味があるとは思いもよらなかった。KUDO&マサ高梨&MIKAMI組vsHARASHIMA&ヤス・ウラノ&彰人組の6人タッグで、確かに現王者のKUDO選手が入っているけれど、つい先ほど両国で棚橋弘至戦が発表されたHARASHIMA選手がいつも以上に充実しているな、と見ていたらヤス選手が高梨選手を一瞬の間に丸め込んでしまい勝利。ということは高梨選手が保持していたいつでもどこでも挑戦権がヤス選手に渡ってしまい、それを行使すると宣言して急にKO-D無差別級タイトルマッチKUDOvsヤス・ウラノが始まり、めくるめく展開の中で突如「BAD COMMUNICATION」が流れて大家健選手が飛び込んできていつでもどこでも挑戦権を行使すると宣言し、え、まだ試合中なんですけども?と思っていたらなんと3wayが認められ、つまりKO-D無差別級選手権試合KUDOvsヤス・ウラノvs大家健のタイトルマッチになってしまい、ということはKUDO選手からでなくても誰かが誰かをフォールした段階で試合は決してしまうということだ!

動揺と混乱と興奮の中で大家さんがヤス選手を炎のスピアで吹っ飛ばし、声援と悲鳴の中で松井レフェリーがマットを3つ叩くのはほんとうに、あっという間のことだった。第52代、KO-D無差別級王者、大家健誕生。記者席の私たちも震えました。

そこへぬらりとリングに上がってきたKUDO選手が大家選手のアジテーション用のマイクを踏みつけ、さっきまで王者でありながら保持していた「いつどこ挑戦権」を使うと宣言、ああ!KUDO選手がこれ持ってたんじゃないか、という安堵と落胆の中でまたKO-D無差別級選手権試合、大家健vsKUDOのゴングが鳴り、ダイビングダブルニーで大家さんをマットに沈めるまで、これも一瞬の夢のような出来事でした。

書いてしまえばほんとうにあっという間の出来事で、わずかな時間でまたベルトは元のKUDO選手の腰に戻ったけれど、ここにはたくさんの思いがつまっていた。喜びも悔しさも懐かしさも感謝も。

全試合が終わった後でバックステージのKUDO選手に「大変な一日でしたが」と声をかけると、大変だったとか何だとかそういうこと以上の感情をKUDO選手が吐き出し始めた。

KUDO:KO-Dの試合はもうたぶん10回以上やってますけれど、今日が一番感慨深いというか。大家、ウラノって20年ずっと一緒なんです。

そうだった。この3人は同じ時期に同じ大学のプロレス研究会にいて、同じようにプロレスラーを目指した仲間だった。3人とも人慣れしたタイプではなく、饒舌でもない。そんなに友達も多くない。でも、そこにプロレスがあったから一緒にやってこられたし、一緒に夢を見られた。KUDO選手がキックボクシングの試合で後楽園のリングに立った時には、二人してチケットを買って応援してくれた。別々の道を歩んだこともあったけれどいま同じリングで、しかもかつてチケットを3人で買って後楽園に見に行った頃より格段に大きな団体になったDDTで、能力の高い選手が集まっている中で自分たちにしか出来ないタイトルマッチを戦うことが出来た。普段あまり感情をあらわにしないKUDO選手が目を赤くしてとめどなくこぼれるように語った思いは胸に響きました。

この3人で頂点を目指す戦いが出来た。そして大家さんもほんの一瞬だったけれど、その頂点に立った。大家健も頂点に立った人にしか見えない景色を見たんです。KUDO選手は冗談めかして「なかったことにしましょう」と言っていたけれど、なかったことなんかにはならない。この先何年、何十年経っても、KO-D無差別級の歴史の中に「第52代 大家健」の名前は永遠に刻まれる。あの日からずっとこの日まで、3人の時間は繋がっている。

そしてその混乱に先立つこと小一時間、ここにもずっとやってきたことがひとつ新しい形で実を結ぼうとしている人がいる。HARASHIMA選手だ。今年も新日本プロレス棚橋弘至選手が両国大会に参戦することが発表され、その対戦相手として流れたテーマ曲がHARASHIMA選手だった時にはこれまた震えた。いや、全く予想が付かなかった。

というのも、HARASHIMA選手はこれまでずっと、DDTの中だけで戦ってきた人だった。もちろん年越しプロレスや三分の計的なお祭りで他団体と絡むことはあったし、学生時代の先輩である真壁刀義選手とは戦いもしたし組んだりもしたけれど、飯伏幸太やチームドリフがメジャー団体に出撃して経験を積んだり名を挙げたり、もっと昔にはKUDO選手やMIKAMI選手がアメリカに遠征にいったりしている中で、ほぼDDTの中だけでひたすらにその強さを磨き続け、DDTを守り続け、そして絶対王者と呼ばれるまでの地位を確立させた。他団体に出るよりももしかしたらこれは、難しいことだったかもしれない。

なぜHARASHIMAは外で戦わないのだろう?というのはたぶん多くのプロレスファンの疑問であったろうし、関係者でもそう思っている人は多かった。私も何度かインタビューで尋ねたことはある。そのたびにHARASHIMA選手はこう言っていた。

HARASHIMA:うらやましくないといったら嘘になりますけれど、でも僕はDDTが好きだし、DDTの中で強くなりたい。人にはそれぞれ役割があって、僕はDDTでもっともっと強くなりたいんです。

誰もが知る負けず嫌いで、練習熱心。だからこそ、他団体に出て自信をつけたり結果を出したりしてDDTに帰ってくる仲間たちに、HARASHIMA選手は負けたくなかったはずだ。その思いがまた、HARASHIMA選手をもっともっと強くしたのかもしれない。

そんなHARASHIMA選手に、棚橋弘至という最高級の相手がやってきた。誰もが信じて疑わないこの国の、いや海外からも認められるプロレス界の大エースで、スターで、百年に一人の逸材だ。

思えばこの二人はよく似ている。学生時代にプロレスのルーツがあり、ただひたすらにプロレスを信じ続け、自分が強くなる道を愚直に歩んできた。華があって生まれながらのベビーフェイスで、そしてとてつもなく負けず嫌い。

去年は竹下選手相手にその横綱級の存在感を見せつけた棚橋選手。しかし今回は両団体のエース対決だ。ものすごくわくわくするし、そしてものすごくヒリヒリした試合になるかもしれない。HARASHIMA選手にとっては自分がこれまで信じてDDTで培ってきたものが、間違いじゃなかったことをその手で、その身で証明して欲しい。それを切に願っている。舞台はDDTの両国大会だから。

DDTに参戦して3年、去年は総選挙で念願の選抜入りして入団した坂口征夫選手がその力で両国のメインの座を掴んだのもまた、努力と信念のたまものだった。ちゃんと、みんな形になる。いつかきっと形になる。それを私たちは応援できる。それが嬉しい。

ひとりひとりのリングで流した涙や願いや誓いが、実を結ぶ瞬間を目撃できる喜び。それを全身で五感をフルに使って体感した、今日という日でした。

 「2009年6月13日からの三沢光晴」を読んで

sayokom2015-06-15


人には誰しも使命がある、と思う。それは何も世界を救うとか人類の暮らしを変える大発明をする、とかじゃなくて、自分の身近な人を幸せにするとか、与えられた仕事をきちんとするとか、そんなことでもいい。とにかくどんな人にも成すべきことはある。

恐らく佐久間さんにとってはこの本、「2009年6月13日からの三沢光晴」を作ることが使命だったんだと思う。佐久間さんとは、元週刊プロレスの編集長の佐久間一彦さんのことだ。今は編集プロダクションであらゆるジャンルのスポーツ本を手がけながら、日テレG+でプロレスリングNOAH中継の解説に携わっている。サムライTVのバトルメンの解説にもたびたびいらしている、マリノスファンでベイスターズファンのあの佐久間さんのことだ。この本はそのタイトル通り、あの三沢さんがリング上で命を落とした2009年6月13日のその日の未明から、リング上で意識不明になり、病院に運ばれ、最期の瞬間を迎えるまでと、そしてその不幸な事故にたまたま立ち会った人たちのその後を丹念に丹念に追ったドキュメントである。

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猫耳再録:第244回 劇場版プロレスキャノンボール2014~それは生きることへの賛歌

sayokom2015-06-10


ポレポレ東中野で劇場版プロレスキャノンボールを観てきました。本編終了後に今成助監督が同伴してきた永島勝司さんとのティーチインがあり、それはそれはもうど真ん中でカテェ感じのトークだったのですが、永島さんが「ジャパン・ナガシマ」という名の新団体を旗揚げしたいと考えていらっしゃることと、「俺はずっと前からプロレス業界の風雲児は高木三四郎永田裕志しかいねえと思ってた」ということをとにかく皆さまにお伝えしたいと思います。

以前試写で観た時の感想を猫耳アワーに書かせて頂いたのですが、アーカイブが見られなくなってしまったのでこちらに再掲載します。全国各地に上映の輪が広がっているいま、映画をご覧になった方とぜひこの思いを分け合いたく。そして文末に今回2度目にしてまた改めて気づいたことを付け加えます。

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わたしが三陸で見たり食べたり乗ったりしたあれこれ

プロレスキャノンボール興行が大船渡市民体育館で行われてから2週間が経ちました。今でもあの熱気、澄んだ空気、あの山やあの海やあの電車を思い出します。せっかくなので、今回私が大船渡まで行った道程と、立ち寄ったお店などをまとめておきます。皆さんの参考になれば、という気持ちと、自分の旅の記録として。
もっと事前にきっちり予定を立てて行けばもっといろいろなところを廻れたんじゃないかと悔いも残りますが、行った場所はいずれも素晴らしく、忘れ難い場所でした。
(私がこの地で感じたことについては先に「終わらないあきらめないプロレスキャノンボール~猫耳アワー」に書いています )

大船渡までは電車の場合、東北新幹線で一ノ関まで行き、 JR大船渡線に乗り換えて気仙沼まで。大船渡線気仙沼→盛(さかり、と読みます。大船渡市内の駅です)間は東日本大震災の後まだ線路が復旧していないので、 BRTという代替バス運行システムで気仙沼から大船渡市内まで。だいたい都内から6時間くらいかかるでしょうか。
車で行く場合も東北道の一ノ関ICを降りて一般道で三陸方面へ。いくつか道はありますが、私はたまたま気仙沼経由の道を通ったので奇跡の一本松を見ることが出来ました。車だと途中休憩を挟んで7時間くらいかな。その他に時間が合えば都内からは高速バスもあります。

奇跡の一本松は、陸前高田の広田湾という海沿いにあります。詳しいアクセスはこちら。
http://www.city.rikuzentakata.iwate.jp/kategorie/fukkou/ipponmatu/access/access.html

BRTの停留所も近くにあるようですが、車の場合駐車場に停めて少し歩きます。その歩く道筋に猫耳の文中でも触れた巨大ベルトコンベアーがそびえているので、土木系がお好きでしたらそちらも圧倒されると思います。

ベルトコンベアーについてはこちらのサイトが詳しいです
http://wadablog.com/volunteer/post-49.php
一本松の駐車場にはカフェがあって、そちらでお汁粉やコーヒーを頂くことが出来ます。私は夕暮れ時に着いたので一本松の景色はそれは荘厳でしたが、カフェとお土産物屋さんは閉まってしまうのであまり遅くならないうちに行く方がいいかも。17時過ぎると一本松の間近まで行ける道も閉まってしまいますのでご注意を。

宿泊は大船渡市の碁石海岸というところにある、「碁石温泉 民宿海楽荘」というところに泊まりました。
http://www3.ocn.ne.jp/~kairakus/
民宿といってもちょっとしたホテルくらいの設備は整っています。温泉もとてもいいお湯です。夕食には立派なカジキマグロのカブト煮を出してくれました。骨まで煮込んで頬肉はトロットロ。まだ復興のための業者さんがこの辺りは多いのか、作業着姿のお客さんが多かったですね。碁石海岸は津波の被害をそれほど受けなかったということですが、切り立った崖と入り組んだ海岸線、小島や岩が雄大な海岸です。

翌朝は盛駅から三陸鉄道南リアス線に乗って終点の釜石まで。

三鉄は時間帯によっては2時間、3時間に1本だったりするので、事前に時刻表を調べて行った方がいいかも。
http://www.sanrikutetsudou.com/timetable
私はちょうど行ってしまった時間で、しかもまだ朝9時で空いているお店もなかったので(ファストフード店とかこの辺りはないです)、サンリアという近くのショッピングセンターでお茶しながら原稿書いたりしてました。

真ん中の道路はBRT用。元々は線路があった場所です

三陸鉄道は、この盛から北上して釜石まで行く南リアス線と、宮古から久慈まで行く北リアス線があります(今更ですが)。あまちゃんの舞台になったのは基本的には北リアス線。でも、南リアス線北リアス線の間を繋いでいたJR山田線の区間がまだ復旧していないので、南リアス線北リアス線を乗り継ぐのは今はなかなか難しいです。そもそも三陸鉄道自体、南リアス線北リアス線も全線開通できたのはまだ今年の4月のことなのです。私が乗った車両は、クウェートからの支援で導入された真新しいタイプでした。

盛から釜石までだいたい1時間。いつもそうなのか、私が乗った電車が団体さんがいたからなのかわかりませんが、夏ばっぱみたいなおばちゃんが三鉄のハッピを着て、車内でお茶を配ってくれたり、わかめやおつまみなんかの車内販売をしてくれます。南リアス線はトンネルが多いんだけれど、それを抜けると海岸線と、すぐ後ろに迫ってくる山がとても綺麗。ほんとに漁を終えた夏ばっぱやアキちゃんが、歌いながら坂を登ってくるのが見えそうです。


途中の恋し浜駅、というところでは3分くらい電車が停まってくれるので、みんな電車を降りて写真を撮ったり、全国から寄せられたというホタテの貝殻の寄せ書きを見たりします。ここのホタテは肉厚で本当に美味しい。後でハンバーガーで食べました。ちなみ恋し浜、というロマンティックな地名は、「小石浜」から変えたんだそうです。「鉄道ダンシ」というイケメンキャラもいます。
鉄道ダンシ http://www.tetsudoudanshi.com
ちなみに私はこの駅で大吉さんもびっくりのハンサムな運転手さんと一緒に写真を撮りました。

左に見える待合室の中にはホタテの貝殻に書いた寄せ書きがたくさん下がってます

終点の釜石駅を降りると、かの有名な新日鉄の釜石工場がどーんとそびえ立っています。でも今はもうラグビー新日鉄釜石ってないんですね。釜石シーウェイブスというチームがそれを受け継いでいます。

あと釜石駅にはジオラマがありました。観光協会長が作ってるのかな!と興奮しました。

釜石では復興屋台でラーメンを頂きました。釜石駅から歩いてすぐです。大船渡にも、そして釜石にも被災した飲食業の方たちのお店を一同に集めた復興屋台があります。三陸の町にはあちこちに復興屋台があり地元の味を堪能することが出来るので、復興屋台巡りをするのもきっと楽しいと思います。「こんとき」というお店で食べた釜石ラーメンは、澄んだスープに細いちぢれ麺が優しいお味でした。


釜石はまゆり飲食店会 http://hamayuri.kirara.st/shop.shtml
また盛行きの電車まで界隈をぶらぶらしていたら、川の中州にシカの親子がいてびっくりした!ツイッターで大船渡情報をいろいろ教えて下さった方から「夜お帰りになる時にはシカにご注意下さい」と言われていたのですが、よもや真っ昼間の町中で、しかも川にシカがいるとは。でも超可愛かったです。こっち見るな。いや見て。

大船渡に戻って、「THE BURGER HEARTS」というハンバーガー屋さんへ。盛駅の近く、ショッピングセンターサンリアから一本中に入ったところにあるアメリカンなお店です。このお店に行くために大船渡へ行く価値がある、と評判だったので楽しみにしていました。
THE BURGER HEARTS http://tabelog.com/iwate/A0304/A030403/3005292/
中は古き良きアメリカンダイナーのインテリアで、BGMもバディ・ホリーエルビス・プレスリーなど50`s。ちょうど私が行った時には外国人のお客さんがいらして打ち合わせをしていたりしていたので、何だかここだけが大船渡じゃないみたいでした(失礼)!

パンも自家製、パテも地元岩手の牛肉とこだわったメニューがずらり並んでいたのですが、私が「絶対これ頼もう」と最初から決めていたのが「恋し浜帆立バーガー」。あの、さんてつ恋し浜で採れた帆立を使ったハンバーガーです。

でか!袋に包んで頂きます。丸ごと入ったホタテと、タルタルソースが美味い。パンもふわっふわで甘みがあって美味しい。美味しかったなあ。他のメニューも食べたかったなあ。すぐに行ける距離じゃないのが残念です。お店のご主人には食べ方を教えて頂いたり、携帯の充電をさせて頂いたり親切にして頂きました。本当にありがとうございました。

そこから興行までの間に大船渡復興屋台に出かけたのですが、ちょうどお昼が終わって夜の営業前で、お店がやってない時間帯だったのが痛恨のミス。事前の下調べの無さが悔やまれる。地のものから沖縄料理から定食からいろいろあります。大船渡屋台村と、隣に大船渡プレハブ横丁の2カ所があり、大家健選手がお世話になった定食屋さん「KAIZAN」はプレハブ横丁にあります。
大船渡屋台村http://www.5502710.com

この後、大船渡市民体育館で行われた「プロレスキャノンボール2014」の興行へ。その結果、内容については様々なサイトや観戦記で触れられている通りです。
DDT公式 大船渡大会レポートhttp://www.ddtpro.com/ddtpro/17204/
その日は興行が終わり、後ろ髪を引かれつつ東京に戻りました。一関ICまで真っ暗な山道を走らせている中で、東京ではあり得ないほどたくさんの星が煌めく空を見ました。地平線まで、オリオン座の中にもぎっしり。

東京に帰ってからも離れがたくツイッターハッシュタグ#pwcb2014を追いかけていたら、翌日も大船渡に残ってあちらこちら見ているファンの方が多数。今回は、興行以外の時間を使ってファンがそれぞれ自分が思うままに三陸をその目で見て廻る様子が印象的でした。気仙沼を見た人。陸前高田を廻った人。私のように三陸鉄道に乗った人。たぶん多くの方が、今回のプロレスキャノンボールがなければこの地を訪れることがなかった人たちだと思います。

帰ってから改めてマンガ「さんてつ」を読み返したり、偶然放送していたNHKのドキュメンタリー「ETV特集 復興まちづくり 4年目の日々~岩手 陸前高田」という番組を見たりして、ああ、もっといろいろ知ってから行けば良かったなと痛感させられています。本当に、もう大船渡も陸前高田も知らない場所じゃないから。

30日のDDT後楽園大会で売店の大家健選手と少し話をすることが出来ました。「もう帰って来ないかと思いました」と言ったら「帰ってくる時にちょうど長野の地震で新幹線が止まって、あれもしかして俺に帰るなって言ってんのかなって思いました」と言う大家さん。「でも友達がたくさん出来たので、また行かなきゃなと思ってます」と淡々と話していました。

「大船渡の人って、『何で大船渡に来てくれたんですか?』ってみんな言うんですよ。陸前高田とか気仙沼とかと比べるとまだ自分たちは被害が少なかったのにって。でも仲良くなっていろいろ話してると、やっぱりみんな『あの日はね』って震災の話をしてくれて。僕が仲良くなった高校生とかも『ああアイツも一緒に連れてきてあげたかったな』って言うから誰のこと?って聞いたら、プロレス大好きな友達がいたんだけれど、震災で亡くなってしまったって。それをもう大げさに言うでなく、普通の感じでみんな言うんですよ」

大家さんは友達に会いにまたいつか大船渡に行くかもしれない。私も日々また行きたい気持ちが募っています。プロレスファンでもそうでない方でも、大船渡や陸前高田に行こう、行ってみたいなと思う人の参考になればなと思っています。

旅に出る理由があった小沢健二と旅に出られなかったタモリ

sayokom2014-03-20

オザケンこと小沢健二さんの16年ぶりの笑っていいとも出演に関しては、生放送を凝視していた時には「あっボーダー」とか「あっ眼鏡」とかそういったことばかりに興奮していまひとつ冷静な気持ちでいられなかったので、録画したものを改めてひとりで見てみたらものすごくいろんな感情が揺さぶられ、有り体に言うとものすごく泣けました。

これから録画を見ようと思っている人はここから先は読まない方がいいです。出来ればご覧になった後にまた読みに来て下さると嬉しいです。

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